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空調が効いたままのトイレの中、僕は服を脱ぎ捨ててパンツ一丁になっていた。
公衆トイレで一人パンツ一丁になって一体何をしているのかって……別に変なことをしているわけじゃない。
ゴブリンから逃げる時に転げ回ってできた怪我に、トイレの洗面所の水、僕は【ポーション水】と呼ぶことにした、をかけているだけだ。
「いたたっ……擦り傷よりも打ち身の方がキテるな、これ……」
しっかり上下のスーツを着ていたので、擦り傷ができていたのは手のひらや顔の一部だけ。
むしろスーツの下で内出血しているところの方が、痛みが強くて見た目も悪い。
「さて……」
僕は擦り傷の時と同じように、内出血してるところに【ポーション水】をかけて行く。
「お、よく効くねえ……さすがは異世界ポーション。いや……これは向こうの世界からきてる蛇口だから、元世界ポーションなのか……? ま、どっちでもいいか……」
水をかけるだけで痛みはすっと引き、青あざも少しずつだけど消えていく。
どういう原理はわからないけれど、内部損傷にも振りかけるだけで効果があるようだ。
「これだけ効果があるなら多少の怪我なら死ぬことはなさそうかな……ま、もちろん油断はできないけど」
全ての目立つ傷に【ポーション水】をふりかけたところで、僕は再びスーツに身を包み文明を取り戻す。
公衆トイレにパンツ一丁のままじゃ、さっきのゴブリンをバカにはできない。
「さて……この水道が使えるわけだから、水は当面の間は問題なさそう。食料も明日明後日に死ぬってことはない。だけど、どう頑張ったって、1週間は保たないよな」
いや、生きているだけでいいってのなら、この食料と水だけでもしばらく持つのかもしれない。
救助が来るっていうなら、安全地帯のトイレの中でじっと生き延びるってのもありだろう。
だけど……ここに誰かが救助に来るってのは、ちょっと期待できそうにはない。
自力で食料の確保を目指して動き回るなんて元気があるのは、明日、良くて明後日くらいまでのはず。
それ以上は飢餓に耐えながらの活動になってしまうはず。
異世界チートで腹が減らないなんてこともあるかもしれないけど、そんな不確定要素に命は賭けられない。
「つまり、今日か明日には、食料探しにあの森に入り込む必要があるってことだな」
必然と思い出されるのは、さっき追いかけられたばかりのゴブリンのこと。
モンスターというにふさわしい凶悪な見た目。
遠くからは一瞬人に見えたわけだけど、あれは全くもって人とは別の存在だってのが近くで見たらよくわかった。
あれは間違いなく人という種の敵。
いくら2足歩行の動物だとはいえ、僕はあれを屠ることをためらいはしないだろう。
そんなゴブリンだけど……
「足は、めちゃくちゃ早かったよね。あれは、人間だったら100メートル走の世界記録ってレベルかな……」
追いかけっこをしたら、僕は間違いなく勝てないだろう。
だけど……投げつけてきた槍の速度、そして投擲の技術。
それはさほどのものではなかった。
慌てて逃げていたから大げさに転がって避けたわけだけど、落ち着いているって条件でならもう少し余裕を持って躱せたはず。
つまり、奴の能力は敏捷性特化。
腕力や戦闘技術は恐れるほどのものじゃないのかもしれない。
「確認する必要が、あるだろうな……だけど、その前に武器だ武器」
いくら腕力が強くなかったにしたって、あのゴブリンと素手で殴り合いがしたいとは思えない。
戦うためには武器が必要だ。
僕はトイレの中を歩き回って使えそうなものがないか探してみる。
この公衆トイレは最近はやりの男女共用ユニセックストイレってやつ。
確か僕がお腹を押さえて個室の一つに駆け込んだ時も、同年代の女性がもう一つの個室に姿を消すところだった。
個室は大きめのが三つついていて、もちろん小便器はない。
そんなわけでアイディアとしては真新しいものだけど、トイレ自体は普通のトイレだ。
念のためその扉を一つずつ開いてみるけれど、さっき使った時と同じように普通の洋式トイレが鎮座しているだけ。
当たり前だけど、武器として使えそうなものはない。
貯水タンクの蓋を外せば盾くらいにはなるかもしれないけど、重いしまあ邪魔になるだけだろう。
「ってなると、やっぱここだよな……緊急事態なんで失礼しまーす」
誰にともなく断って、僕は掃除用具入れのロッカーを開ける。
目に飛び込んでくるのは、もちろん掃除用具の数々。
「新しいトイレでも掃除用具はまあ一緒だよねえ……さて、モップ、モップ。デッキブラシもいいけど、日常系武器って言ったらやっぱりモップだよね……」
その中から僕が手に取ったのはモップの柄だった。
1メートルと少しの棒、そして先端には金属付き。
剣やら槍とは比べられないけど、それなりの破壊力はあるだろう。
素手よりはずっと戦えるはず。
軽く振り回してみるとヒュンヒュンといい音がする。
「それから、これ……かぶれそうかな?」
次にロッカーから取り出したのは、下に置かれていた小さめのバケツ。
掃除担当の人が綺麗に使っていてくれたのか、汚れも見えないし悪い匂いもしない。
僕の頭のサイズにちょうどいいくらいのサイズで、かぶってみると実際にちょうどよく額のあたりで止まる。
「掃除用だしちょっと汚い可能性はあるけど、背に腹は変えられないよな。見た目はまあ綺麗なもんだし……」
いかなる軍隊でも兜やらヘルメットで頭を守るのは、それが必要なことだから。
体をやられたって【ポーション水】でなんとかなるかもしれないけど、司令塔たる頭をやられたらその瞬間でアウトだ。
プラスチックバケツじゃ気休めかもしれないけど、ないよりはマシ。
「こいつらも……一応拾っておくか」
その他にも目についたものを、適当にポケットなんかに突っ込んでいき、僕は掃除用具入れの扉を閉めた。
続いて僕が向かったのは再びの洗面台。
「【ポーション水】をなんとか外に持って行きたいんだけどな……」
ごそごそと洗面台の下の棚やゴミ箱の中を漁る。
「おっ、ラッキー……」
ゴミ箱の方をひっくり返していると、空のペットボトルが一本入っていた。
誰かが飲んだ後のペットボトルってのはあれだけど、素敵なお姉さんのものであったことを祈ろう。
とりあえず洗面台で丁寧に中と飲み口を洗う。
ピカピカに磨き上げたペットボトルに、蛇口から【ポーション水】を注いでいく。
「見た目は……やっぱりただの水なんだよなあ……」
ペットボトルを透かしてみるけど、傷を治す効果のある不思議水であることは信じ難い。
ま、いずれにしろ、キャップを閉めたら準備完了だ。
「防具はスーツにバケツヘルム、武器にはモップ。重要アイテムは【ポーション水】ってね……さて、行ってみますかー」
少しだけ装備の整った僕は、再び異世界に挑戦するべく公衆トイレの出口へと向かったのだった。
ーーNo. PD
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